最初に、当サイトが作成した『日本国内の原子力施設』 で、大飯原発の場所を確認してください。原発銀座と呼ばれる若狭湾の一番奥まったギザギザの地形が目立つあたり、大島半島の先端部にあります。
クローズアップすると下の地図になります。
若狭湾を襲った巨大津波として、もっとも知られているのは1586年の天正大地震によるもの。当時、日本で布教活動をしていた宣教師のルイス・フロイスは『日本史』の中で、「ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。若狭の国には、海に沿ってやはり長浜と称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった」と記しています(フロイスが「長浜と称する別の大きな町」としているのは、琵琶湖東岸の秀吉お膝元の町・長浜と区別するため)。
また、詳細は明らかになっていませんが、江戸時代には、現在の美浜町の一部で一つの村が津波によって跡形もなく消えたという記録もあります。
<美浜の村誌「大津波で村全滅」 原発立地の若狭湾内>(福井新聞)
1662年(寛文2年)に発生した寛文地震では、津波の記録こそありませんが、三方五湖(現在の美浜町から若狭町にかけて位置する5つの湖)附近で、大規模な隆起や沈降が起き、多くな被害がもたらされたことが記録されています。
<寛文地震に関する資料>
三方五湖と大飯原発は、20㎞ほどしか離れていません。
さて、大飯原発に近づいて行くとこにしましょう。
大島半島の先端に向かうには、たった1本の道、県道241号線しかありません。
もう少し進むと、県道241号線から原発へ入るためには、2本のトンネルしかないことが分かります。トンネルの入り口が地震によって崩れやすいのは言うまでもありません。
福島と違って、仮に非常用ディーゼル発電機が作動したとしても、その燃料が持つのは数日。しかも、大地震、大津波に見舞われれば、そこら中にトラブルが起きます。ディーゼル発電機だけで過酷事故が回避されると考える方に無理があります。陸路の補給なしに、どうやって収拾するのでしょうか。
陸路でのアクセスが自由に行える福島第1でさえ、今の状況なのです。大飯で何かがあったら、手も足も出ません。チェルノブイリを超える人類史上最悪の事故への道をひた走るのみなのです。
大飯原発を襲う津波には2つのルートが考えられます。北東からの津波Aと北西からの津波Bです。
GoogleEarthの画像で見ると、大飯原発が津波に対して、ほぼまる裸の状態である事が手に取るように分かります。
原子力発電自体が持つ危険性に目をつぶった上に、地震・津波への対応が極めて難しい大飯原発の再稼働強行。これはもはや、歴史に残る大愚行です。
みずからの責任で大飯原発を再稼働させると言った野田総理。しかし、何かあったらどうやって責任を取るのでしょうか?原発事故の責任を取るとは、総理を辞任するとか、政界から去るとか、そういうレベルの話ではないのは誰にでも分かる話です。
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これまで、当ブログでは、地震・津波と原発事故の関連をあまり強く訴えてきませんでした。それは、「地震・津波の危険がなければ原発はOK」となってしまうことを危惧してきたからです。
スリーマイルアイランドもチェルノブイリも、自然災害とはまったく無関係に起きたことを忘れてはいけません。
しかし、少しばかり視点を変えて考えることにしました。
地震列島・火山列島の日本で、原子力発電を推進することは、愚の上塗りに他ならないのです。ただでさえ、危険極なりないものを、利権に溺れた連中が、嘘に嘘を上塗りしながら進めてきたのが日本の原子力。そのことに、多くの人たちが気がついた今、またもや大愚行を強行したのが野田政権なのです。地震も津波も火山も知らんぷり。人々の暮らしや命を守ろうという意識は、微塵も見られません。
霞ヶ関・永田町を数万人が埋め尽くしたのは、1960年の安保闘争以来。私たちは、みずからの力を過小評価する必要はありません。
浜岡原発が止まったように、動いている原発を止めることはできるのです。
大飯原発の再停止を実現し、すべての原発を廃炉に向かわせましょう。