今から千三百年前に生きた杜甫には、山河すらその営みを維持できなくなる「大崩壊」が、同じ東アジアで起きようとは、想像もつかなかったでしょう。言うまでもなく、福島第1原発の事故のことです。
福島の山林が大きな危機を迎えています。「原発周辺、林業危機」(毎日新聞)。
「除染すれば、避難地域も住めるようになる」と吹いて回る楽観的な学者がいますが、彼らの想像力の中に、「森」や「山林」はないのでしょうか。除染も土壌改良も、ほぼ不可能です。毎日新聞の記事には、土砂崩れの問題や、林業の衰退への危惧が書かれていますが、それだけではありません。森はたくさんの雨水を蓄え、その水はやがて豊かな栄養分を含んで、河へ、そして海へと流れ込みます。森は河と海の命の源なのです。
上流に豊かな森のある河が流れ込む海は、例外なく魚たちの天国。人間にとっては、かけがえのない好漁場です。
荒れ果てた森から流れ出る水は、どんな水でしょうか。栄養分が乏しいだけではありません。様々な核分裂生成物(放射性物質)を含む死の水なのです。
河を見てみましょう。「アユ漁延期を検討 放射性物質、基準値超す」(毎日新聞)。多くの科学者が、淡水魚は海の魚より放射性物質を蓄積しやすいと指摘しています。それは、大地に降り注いだ放射性物質の大半が、やがて河に流れ込むから。さらに、河や湖では、海ほどの「拡散」が期待できないのが大きな理由です。息を殺してアユやヤマメと対決する釣り師たちの夢。それは、人が山河と対話する瞬間でもあります。夢も時も、いとも簡単に打ち壊されました。
そしてこの汚染は、小さな川魚から大きな川魚へ、あるいは、水鳥たちへと広がっていきます。河や湖の周りの生態系を守ることは至難の業。そして程なく、私たち人間の内部被ばくへとつながっていきます。
「国破れて山河あり」。人間の営みが、どんなに不幸な事態を招いても、山河は静かに見守っていてくれるはずでした。しかし原子力事故は、それすら許さない過酷なもの。豊かな山河すら失われてしまうのです。